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東京高等裁判所 昭和26年(う)5000号 判決 1952年6月25日

控訴人 被告人 上坂正久

弁護人 福田力之助

検察官 古井武夫関与

主文

本件控訴を棄却する。

理由

弁護人福田力之助の控訴の趣意は、別紙同人名義の控訴趣意書と題する書面記載のとおりである。これに対し、当裁判所は左のとおり判断する。

第一点(訴訟手続の憲法その他の法令違反)について。

原審における本件訴訟手続を記録に基いて調査すると、昭和二十六年九月四日原審検察官副検事世羅三郎から、起訴状に被告人の氏名を(推定)上坂正久、年令を(推定)昭和三年六月二十一日生二十三才本籍を(推定)石川県金沢市瓢箪町八住所を(推定)東京都文京区丸山福山町七武田太郎治方、職業を(推定)謄写筆耕等と記載して、本件道路交通取締法違反罪を起訴し、同月七日第一回公判期日において、裁判官の人定質問に対し、被告人は起訴状において推定として記載されたとおりの氏名、年令、住居、本籍を答え、本件公訴事実を認めると陳述し、証拠調に入り、検察官は立証事項の一として第一、被告人が上坂正久であることを推定した事実を挙げ、その証拠として証人武田喜志江を、その他の立証事項について、証人田島三男、同竹内仲治、同堀越太左衛門、同生田目忠伊の各取調を請求し、弁護人は検察官が上坂正久であることを何によつて推定したかについて釈明を求め、検察官から、被告人が黙秘権を行使しているので一応推定して起訴したが現在本籍照会をしているがいまだ回答がないと述べ、弁護人は、被告人の友人が警察官をしているので、その人から聞いて推定したのではないかと述べ、被告人及び弁護人から、証拠調に不同意であるとの意見を述べたが、裁判官は、検察官の右請求を許容し、次回公判期日たる九月二十八日に右証人全部を取り調べる旨決定し、右九月二十八日の第二回公判期日においては、冐頭に弁護人から、本日尋問する証人の供述調書は作成されているかと釈明したのに対し、検察官は答弁せず、次いで、裁判官は右証人全部を取り調べ、検察官の請求により証拠物たる新聞四枚、証拠書類たる現行犯人逮捕手続書(二通)、差押調書、実況見分調書、写真撮影報告(現場写真添附)豊島区検察庁の照会に対する金沢市役所の回答書(昭和二十六年九月十日附)及び文京区役所本郷支所第二出張所長中村達の居住調査についての回答書(同年九月二十五日附)の取調をも為し、即日被告人を罰金二千円に処し、罰金不完納の場合は百円を一日に換算した期間労役場に留置し、未決勾留日数中二十日を一日百円の割合を以て右罰金刑に算入する。訴訟費用は被告人の負担とする旨の判決を言渡したという経過を辿つたことは認められるが、弁護人が検察官に書証の提出を命ずべき旨を要求したこと、被告人も世羅副検事に本籍、住所、氏名、年令、職業等を供述したが、感情的になつていた同副検事は一旦作成した調書を破棄した事実があり、起訴当時被告人に関する氏名、年令、職業、本籍、住所等の事項は悉く明かになつていたということは記録上これを確認するに足る何等の資料がない。尤も、被告人の友人麻布署勤務の警察官徳田昭が被告人が逮捕された直後池袋署を訪ねて被告人に面会し且つ署員に本籍、住所、氏名、年令、職業等を告げたという事実は、原審第二回公判調書中の証人堀越太左衛門の供述記載によつて、ある程度窺えないこともないがこれだけの事実で警察官や検察官が被告人が上坂正久であるとの確信を持ち得たとは考えられないのである。されば本件捜査の過程においては、右の各事項を調査することが相当重要な事項であり、検察官は一応の資料によつて、起訴状記載のように推定したけれどもなおこれを確認できないものとして、本籍地の市町村及び推定住居地の区役所等に照会し、その回答を待つて右の事項が確定されたものと認められる。即ち、本籍地たる金沢市役所の昭和二十六年九月十日附回答書、住居地たる文京区役所出張所の昭和二十六年九月二十五日附回答書によつて、同年九月二十五日に至り、これらの事項が確認されたものと認めるのを相当とする本件訴訟の経過に照し、人定質問における被告人の陳述だけでは、右の各事項が確認できなかつたものと解すべきである。所論は、検察官が起訴状に被告人の氏名等を推定として記載したことにつき、裁判官が釈明権を行使しなかつたことは違法であると主張し、裁判官が特に釈明権を行使しなかつたことは所論のとおりであるけれども、検察官が原審第一回公判期日においてもなお被告人が上坂正久であることを確認し得ず証拠によつてこれを明らかにしようとしていたことは、右公判期日における弁護人と検察官との間の前記問答によつて自ら明らかにされていたため特に釈明権を行使しなかつたものと認むべきである。次に原審が第一回公判期日において、前記のように、被告人の同一性の確定及び本件公訴事実の立証のために、証人五名の喚問を決定したことについても何等所論のような違法はないのであつて、所論刑事訴訟規則第百九十三条の趣旨は、検察官は、公訴事実立証の責任あるものとして、先ず事件の審判に必要と認められるすべての証拠の取調を集中的にしなければならぬというに止り、事件に関係あるすべての証拠の取調を全部請求しなければならない趣旨ではない。従つて、証人尋問の請求をするか証拠書類の取調を請求するかは、立証との関連において、検察官に任されたところであり、必ずしも証拠書類を以て立証しなければならないのではない。又同規則第百九十二条は、裁判所が証拠調の決定を適切にするために、証拠書類又は証拠物の提示を求める権限を規定したものであつて、常にその提示を求めなければ、裁判所の訴訟指揮又は釈明権の行使に欠くるところがあるということのできないことも勿論である。

従つて、被告人が逮捕、勾留、取調にあたつて黙秘権を行使したため、前記のような被告人の同一性の確定に本籍地市町村への照会等の手続及び証人尋問等の手続を必要とし、且つ公訴事実立証のためにも証人尋問を行つた本件訴訟手続においては、その間被告人を勾留し、証人尋問について、訴訟費用が生じたことは已むを得ない結果であつて、これを目して憲法第三十七条第一項に違反して、不当に訴訟を遅延させたものということもできない。結局原審には何等訴訟手続の法令違反は認められないから、論旨は理由がない。

(その他の判決理由は省略する。)

(裁判長判事 下村三郎 判事 高野重秋 判事 真野英一)

控訴趣意

第一点原裁判所の審判手続は憲法並法令に違反し著しく被告人に不利益を与え、その結果判決に於て不当に訴訟費用を被告人に負担させたものであつて、原判決は破棄されねばならない。

一、記録上明かな本件訴訟の経過は次の通りである。(一)被告人は昭和二十六年八月十六日道路交通取締法違反現行犯として逮捕された。(二)同年九月四日起訴。(三)同月七日第一回公判開廷。被告人は氏名、年令、職業、住居、本籍、出生地を陳述し、公訴事実全部を認めた。(四)検察官世羅副検事は立証として、証人武田喜志江、同田島三男、同竹内仲治、同堀越太左衛門、同生田目忠伊の五名の喚問を請求した。(五)弁護人は裁判官に対し検察官に書証の提出を命ずべき旨を述べ、検察官は訴訟を遅延させ被告人に対し不当に勾留を継続することを目的とするものであるから反対した。(六)原審裁判官は検察官世羅副検事に対し書証の提出を命ずることなく、検察官申請の証人全部を採用し次回期日を九月二十八日午後一時と指定した。

二、右公判手続に於ける法令違反、検察官は被告人が起訴の当時に於て黙秘権を行使し、氏名、年令、住所等所謂人定尋問に必要な事項を明かにしなかつた。という主張は全く偽りである。

(一)起訴状に括弧を附して推定なる文字を冠して記載された、本籍、住所、職業、氏名、生年月日は事実と全く符合している。被疑者が逮捕当時警察官の取扱が甚だしく不当であつたのを憤慨し氏名等につき黙秘していたのを怒り、捜査の結果(被告人の友人麻布署勤務警察官徳田昭が被告人が逮捕された直後池袋署を訪ねて被告人に面会し且署員に本籍、住所、氏名、年令、職業等を告げた。被告人も世羅副検事に供述したが感情的になつていた同副検事は一旦作成した調書を破棄してしまつた)起訴当時には既に氏名、年令、生年月日、本籍、住所悉く判明していたに拘らず推定なる文字を使用し恰も被告人が供述する意志がない如く記載した。世羅副検事の態度は国家の官吏として実に狭量、不親切、その職務の執行に当り著しく偏見に捉われたものである。此の責任は別途になさるべきであると考えるが、裁判所として釈明権を行使して此の点を明かにしなかつたのは違法である。

(二)原審裁判所は前掲の検察官の不当な訴訟行為を何等反省を求めることなく申請の証人全部につき喚問の決定をしたことは違法である。刑事訴訟規則第百九十三条には「検察官はまず事件の審判に必要と認めるすべての証拠の取調を請求しなければならない」とあり、同第百九十二条には「証拠調の決定をするについて必要があると認めるときは、訴訟関係人に証拠書類又は証拠物の提示を命ずることが出来る」旨の規定がある。

本件について検察官は証拠書類は証人尋問の際提出すると述べ、公判廷に於て、多くの証拠書類を手もとに所持していたに拘らず之が提出を命じなかつたものである。本件の如く事案は簡単であり、被告人は自白している。単に自白の補強証拠の提出のみで審判に必要な証拠は終了する筈である。近時弁護人並被告人の訴訟行為に付き批判があり、裁判所侮辱制裁法案の如きが云々されているが検察官の訴訟行為についても裁判官は訴訟法等の運用によつても恣意を許さないようすべきであり、何れの場合も裁判官が現行法令に基いて之を巧みに運用し、訴訟関係人の行為を制限し、促し、適正な裁判の進行を為すべきであるし又これで充分裁判の威信を保つことが出来ると確信する。

(三)以上の如く原審裁判所は被告人が自白しているにも拘らず、検察官申請の証人五名を何等釈明を求めることなく、許容し、被告人の勾留は二十日以上も継続し(此の点は後述)その訴訟費用は全部被告人に負担させたのであつて、不必要、不当な証拠調の費用を被告人に負担させた原判決は破毀すべきである。

三、憲法第三十七条第一項に違反して検察官が不当に訴訟を遅延させるものであり、法定刑が罰金のみである本件について、被告人を勾留して置くのは不当であると弁護人は昭和二十六年九月七日勾留取消の請求をした。之に対し検察官の意見は「不同意」というのみで何等理由を示さず、裁判所も亦取消請求に対し何らの措置もしなかつた。その結果罰金二千円という如き重刑を言渡し、その勾留日数二十日を通算したのであるが、全く妥協と便宜的措置であつて、刑事訴訟法第一条の精神に反し、裁判の威信を軽からしめるものであるから原判決は破棄さるべきである。

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